井口日記!

劇団ドリームチョップ代表のイグチが、演劇のこととか教育のこととか 奥さんのこととか何となくダラダラ書いてみたんですよ、 というスタンスの日記です。

2011年12月

遅ればせながらクリスマス

23日から28日まで三重県に行ってたので、遅ればせながらクリスマス。
例によって奥様に貢ぎ物をしなければなりません。

今年の貢ぎ物。
111230

例年、お誕生日とクリスマスには貢ぎ物をしています。

いいんです。彼女が喜んでくれるなら。

奥さん「ありがとう(喜)」

うんうん。

で、そのあと食事。インド料理に行ってきました。

奥さん「おいしいね(喜)」

そうそう。その笑顔が見たかったんだ!

で、家に帰ってつまんないことで怒られる。
笑顔継続時間、約2時間40分。






うへえ。




金沢到着。

寒さと鉛色の空。
どよよん。

最終日。

いよいよ最終日です。
それでは。

1)愛知県立刈谷高校「あとひとつ、花があったら」(生徒創作)

バスの車内を模した舞台装置。後ろ(上手)にいくにつれ高さが増していく。
はじめから乗っている高校生。
そこにさまざまな人物が乗り合わせていくというストーリー。

と、書くとなんてことない話のようですが、実はこのバスは記憶を表していて主人公(高校生)の記憶が呼び覚まされていくという仕掛けになっています。
俳優の技術も、特にジャージを着た佐々木公平役の藤野さんの体のキレは目を見張るモノがありました。
そのほかにも、メールを視覚的に段ボールをかぶった人間が演じたり(ちょっと兵藤さんの段ボール人間を彷彿とさせますが)、おなかの大きな2人の妊婦さんがバスと並行して走ったりと、楽しい工夫がいろいろされていました。
そして最後に主人公は、記憶のバスから降りることを拒否します。「むーりーだーよーー」という言葉とともに。
このあたりは非常にスリリングなんですが、このあとのエンディングに「?」が残りました。

暗転をはさみ、不思議な形の吊りものが現れ、呆けたように座り込む主人公のまわりを苦しみうごめく乗客たちが配置されます。問題はそこに現れるひとりの少年。彼はすたすたと現れ「いつまでこんなことを続けるんだ?」などと言う。オーラスは少年が主人公にふれたとたん、主人公が「もう、やーめた」と言いすべてが崩れるというものだが、この少年は何を表すのだろう?
乗客たちが主人公の記憶や脳内を示すのはわかる。「もう、やーめた」がおそらく死を意味するであろうことも想像できる。しかし、最後に出てくる少年は、ほかの乗客たちとは明らかに異質な存在である。実質、この作品内の存在も超えたメタ登場人物ということになるが、それは何を意味するのか。
大きな謎が残った。


2)三重県立桑名西高校「明日に咲く花」(生徒創作)

こちらも三重県で昨年度の戯曲講座受講者による作品。といっても、かなり改稿されているので新鮮な気持ちで観ることができた。
舞台は病室。原因不明のウイルスあに冒された3人の患者と、それを支える女医、看護師。それぞれがごく普通に生活をし、他者と接していくのだが、そこに迫る「死」が彼らの言葉に影を落としていくというストーリー。

俳優陣はなかなか力がある印象です。特に男性二人はテンポもよくて聞きやすく、前半は会場の笑いをしっかり取っていました。舞台装置もとてもていねいに創られており、上下の紗幕が効果的でした。

脚本もかなり練られていると思うのですが、やや60分では足りないのかなという印象を持ちました。突然の死、が全体を覆うのですが、広幸が二回倒れるところがどうしても長くなってしまうので、後半が駆け足かなと。
それでも、ひとつひとつの台詞のチョイスはうまいなと思いました。

三重県、着々とレベルアップしていると感じました。



ふう。なんとか17本感想書きました。
厳しいこと、あるいは的外れなことも書いたかも知れません。
どうぞご容赦ください。
また、イグチの気づかなかったことなど教えていただけるとうれしいです。


3日目。

さて3日目です。


1)石川県立金沢錦丘高校「東へ・・・」(生徒創作)

受験のプレッシャーから電子辞書でカンニングをしてしまう高校生と、マクベスを重ね合わせて描いたストーリー。
登場人物の名前も「松部周(マクベス)」「板東(バンクォー)」「松田文子(マクダフ)」を意識してある。
魔女のシーンなど俳優の演技はなかなかよかった。
しかも、現代高校生における受験のストーリーは、それなりに共感を呼ぶと思われる。

しかし、マクベスとなぞらえるのであればやはりもう少していねいにやるべきではないだろうか。
板東(バンクォー)の存在、松部(マクベス)の最期など、必ずしもすべてマクベスと合わせる必要はないのかもしれないが、それでも(特にラストに関して)あえて本来のマクベスと変えてある根拠となる台詞がほしいと感じました。
もう一点。エンディング間近のシーンで、松田文子と板東の妹が歩くシーン。その直前で松田文子がセンター試験で高得点を取り、東大にいけるのではないかと噂し合う高校生を出している。
とすれば、その松田文子にも魔女が忍び寄るシーンを入れたらどうだっただろうか。
カンニングをしなかった板東が「俺には気持ちがわかる」「おまえにもいつかわかるよ」という台詞があるので、松田文子にも魔女の手が及ぶことを暗示すれば、もともと松田兄がつぶれてしまった理由も想像でき、この作品が松部個人の物語でなく、普遍性を持つとイグチは考えます。

演技演出面ではクオリティが高いと感じました。
松部がカンニングを認めるのを、舞台上手に積み上げたタワーを壊すことで示したシーンは、タワーを構成する白い箱が倒れ落ち崩れる音とともにしっかりと表現できていたと思います。
二人の教師や松部の母も、松部から見た他者としてうまく描かれていました。

2)滝高校「ざしきわらしのいるところ」(生徒創作)

上手い。
この学校は毎回のことだが非常に技術的水準が高いです。
舞台美術・演技演出・音響照明、いずれもとても高いクオリティのもと、統合されていました。
特に、オープニングとエンディングの2回見せる、ホテルフロントのシーン。
かなりの大人数がごったがえす中、聞かせたい台詞だけが突出してでてくる様は、相当の稽古量を感じました。実にすばらしい。

しかし、ストーリーに関しては少し雑な印象を受けざるを得ませんでした。
主人公ユイだけがざしきわらしが見えるという設定は、子供だけに見えるということで問題ないのですが、もうひとつユイのキャラクターにその原因を負わせています。見えないものと遊ぶといった大人には理解できない行動や、写真を撮るとユイの周りにぼやけた光がかかるといった特殊性です。
その特殊性の故に母親からは理解されないというのが、ユイの悩みにもなっているわけだが、この60分を通して、まったくいい母親に変貌しているように見え、また支配人も最初は高圧的・権威的な人物であったものが人が変わったようになっているのが気になりました。
ストーリーに明るさや希望を持たせるのはもちろん大切だが、あまりに都合よくはないだろうか。
楽しければ、ハッピーならばよいとは、私個人としてはなかなか思うことができない。
すべての面で非常に高い能力を見せる彼らだからこそ、もっと深い人間の姿を表現してもらいたいと思うのです。

3)岐阜県立岐阜農林高校「掌~あした卒業式~」

すばらしい。
3・11の震災、津波を間接的(とはいえ非常に重要な要素として)脚本に組み入れ、大所帯のメンバーを十分に力を発揮させた舞台には感動しました。
中心となる5人はそれぞれに個性的でかつ基本もしっかりしていて、特に明日香役の田中さんと高木役の早瀬さんの演技はリアリティ十分でとても印象に残りました。
登場する先生も、人物が良すぎず悪すぎず。これを高校生が書いたとすればその観察力たるやすばらしい。
ぶどうの精、うしの精、きゅうりの精などファンタジー的な存在も、しっかりと存在感を発揮していた。

おそらくは観た人のほとんどが絶賛すると思われるこの芝居。

せっかくなのでひとことだけ気になった点を。
ラストシーン。
用務員さんが「桜の精」ではないかということが示されたあと、川上の携帯から「春よ、来い」が流れる。電話を見た川上が「明日香・・・遅いよ」という台詞を言い、幕へと向かっていく。
芝居を観た段階では、これはやはりマズいと感じました。震災の悲惨さや明日香がいない不在を観客にしっかりと伝えたあとで明日香が生きてました、ではさすがに「よかったね」とは言えない。死者を悼み、悲しみ、それでも生きている者は卒業していく、ということこそがこの作品の真価ではないのか。

・・・と、そのあと脚本集を買って読んだところ、

ト書きの最後には
「あの桜からお祝いが届いた」とある。
つまり、脚本段階ではあの電話(またはメール)着信は、明日香からではないと暗示されている。
なるほど、それならば納得がいくのだが、舞台だけではそれはわからなかった。
そこだけ(といっても大きなポイントだけど)が気になったところでした。

4)愛知県立刈谷東高校「手紙」(顧問創作)

舞台には3人の男女。
それぞれのうしろには小さなパネルがおかれており、3人が別空間にいることが示されている。
そして芝居はそれぞれが手紙を読む、ということだけで展開していく。
あくまで「読んでいる」。つまり、彼らの生の言葉はこの芝居では一切語られないのだ。
それでも、直接会ったり電話ではなく、手紙という間接的なアプローチであるからこそ、また、自分のことを友達と偽りワンクッション置くことによって、はじめて「対話」が成立するのだ、という構造には新しさを感じました。

顧問の兵藤先生とは親しくさせていただいているので、芝居についてもよく話をします。
毎回、演劇作品の構造自体を揺さぶってくる刺激的な舞台を創られるのですが、今回も形式の面で非常にラディカルな印象を受けました。

その上で、今回はイグチが勝手に「兵藤さんらしさ」と思ってる部分が薄かったかなとも思いました。
それは、観客に安心させないこと。
舞台上ではいろいろやってるけどこっちは客席で高みの見物だよーん、ということを決して許さない鋭さや厳しさが兵藤作品の特徴だとイグチは思っています。特に刈谷東高校が不登校の生徒が多い学校ということから「不登校の話でしょ」というふうに自分とは関係ないと弾きに来る観客に対して、「学校に行っていても、仕事に行っていても、ひきこもりはひきこもりだ」「普通と思っている人間も地続きなんだ」とビシビシ伝えてきます。

今回の作品については、一見ハッピーエンドに見えていることもあってか、観客に「観客」という超越的なポジションを与えてしまっているのではないか。もちろん、それが普通であり、これまでの作品が「普通でなかった」のだろうけど。

最後に。
演劇には「情」に訴える部分と、「知」に訴える部分があると思っています。
そして、この作品(および兵藤さんの作品全般)は、「知」に突き抜けたタイプだろうと思います。


5)富山県立呉羽高校「モノ、申す!」(生徒創作)

何事にもがんばることができない主人公ハジメのもとに、使われなくなった参考書、弾かなくなったギター、放置されたサッカーボール、ゴミのように捨てられたポエム、が実体となって現れます。それらとの話を通じて、姉との関係、親友との関係が紡ぎ出されてくる、というストーリー。

俳優陣の体のキレが良くて、会場もおおいに沸いていました。
舞台上からも楽しさや躍動感が伝わってくる、なかなかいい舞台だったと思います。
そのうえで。
舞台に部屋としてのアクティングエリアを示すカーペットが敷かれているんですが、役者がガンガンそれを踏み越えていきます。演劇というのはルールの世界です。特にホントは家じゃないけど、家ってことにしといてねなんていうのは想像力を使った観客とのルール設定ですから、それを簡単に超えていくってのやはりマズいと思います。
それから。
この作品で姉の存在は非常に大きいと思います。主人公と違って姉は頑張り屋さんで大学にも合格している人物として描かれており、主人公のコンプレックスの大きな部分を占めています。その姉が、彼氏と一緒にハワイへ行くと言いだし、それが逃げであるという展開は、主人公にとても強い影響を及ぼしています。

であれば、モノの実体化は本当に必要だったのか?という問題が出てくるわけです。
おそらく最初のアイデア段階でモノの実体化はあっただろうし、それがなければこの作品でなくなる(そもそもタイトルも意味をなさなくなりますし)という意見はあるでしょう。それも十分わかります。そのうえで、です。

主人公が人間的変化(成長)をするために非現実的な存在を必要とする、という構図はイグチが勝手に「不思議の国のアリス構造」とよんでいるものです。ケンカした相手と仲直りする、進路を自分の意志で選ぶ、大切な友達をまもる。それらのためにファンタジーが必要なのだとすれば、現実世界では現代高校生はケンカした相手と仲直りできず、進路は自分で選べず、大切な友達は見殺しにする。そういうことなのでしょうか?
ファンタジーを全面否定するわけではもちろんありません。
しかし、現実を変えるために非現実を持ってくる、というのはよくよく考えてやった方がよいと思うのです。



というわけで3日目終了!

2日目です。

12/26 追加改稿

中部大会2日目。

1)岐阜県立池田高校「はつ恋~私と焼肉と怪獣と~」(演劇部作)

第一印象としてとっても上手な芝居でした。
笑いどころもしっかり笑わせ、シリアスな部分もちゃんと見せるという点では非常に「手練れ」な
感じがしました。まぁ常連校だしね。
しかし。どうにも物足りなさを感じてしまうのです。

子供の頃観た映画と、何事にも本気で勝負できない主人公をダブらせ、周りには楽しい登場人物
をふんだんに配置してとにかく飽きさせない舞台です。
これを言うと必ず論争になるポイントですが、イグチは、俳優および演出のケレン味で観せていくと
いうチョイスをした場合には、やはり圧倒的な技術力がないといけないし、結果の優劣も上手いか
どうかで判断されざるを得ないと思うのです。
それは運動部的なタテの優劣ですから、審査する側からすると楽でしょうけど、やっぱり芝居は
そこだけではないと思うんですよね。確かにわかりやすく評価されるけれども、その結果は
自分たちに返ってくるというか。個人的にはあまりオススメしない方向です。

つまりたとえば、何度かあった場転。暗転にしないためにブルーのシルエットで処理していました。
確かに暗転にするくらいならこうしなさい、というようなことは僕も言いますしセオリーでもある
でしょう。しかし、あの舞台に関しては数も多いしもっと作品に適したやり方があったように
思います。それをしなかったのはセオリー(定石)に甘んじたと言われても仕方ないと思います。
やっぱりもっといい方法はあったはず。そこは考えない、でよかったのだろうか。

最大の問題は、あくまでイグチの個人的見解ですが、ストーリーに芯がない。
大橋泰彦の「ゴジラ」を連想する人は多いと思いますが、「勝てないかもしれないけど立ち向かう
勇気や意志」だけでいいのだろうか。現代高校生を考えるとそれでも難しいのかもしれないけれど、
それでもやはり僕には目指すハードルが低いように感じました。

あ、言うまでもないですが、こういうことを書いたのはこの作品が演劇作品として十分に成立
していたからです。高いレベルにある作品だからこそ、書かせてもらいました。
この作品が大会で高い評価を受けたとしてもイグチは驚きません。
そうしたレベルの作品であったということはぜひ強調させてください。



2)富山県立富山中部高校「我歴」(顧問?創作)

これも良作。カメラ(写真)を重要なアイテムとしてひとりのカメラマンの「我歴」をたどっていく
というストーリー。
作品構造は実はとってもイグチの好みです(好みじゃなくてもいいやい、というツッコミはしないで)。
思い出は人間にとってとても大事なものであり、他者の心を大きく動かす定型でもあります。
この作品でも結婚式のシーンや海岸の出会いのシーンはもちろん、主人公が孫にカメラを
託すシーンではうるっときました。
一方で、38のおっちゃんとしては、主人公の記憶(思い出)として舞台上に切り取る場面が
もうひとつ深さに欠ける気もしました。若いときの恋愛もいいけれど、オトナになってからの
いろいろのほうが、複雑で言いようもない場面を創れたかなと。

もうひとつ関連しますが、この作品の狂言回し的な存在である「ネガ」と「ポジ」。
カメラの精みたいなことなんでしょうか。
ちょっと気になったのが、「ネガ」と「ポジ」が「結婚しよう」となるところ。
これってどうなんだろう?
カメラを通して主人公の一生(さらに言えば「瞳」に受け継がれるのでもっと長い時間)をたどる
といった構成になっている中で、カメラの側に変化が起こるというのはまずいのではないかと。
人は変わり続けても、思い出(写真)は変わらないというのが主筋ではないかなあ。

脚本を書くというのは本当に大変、ということはわかっているつもりなんですが、それでも
やはりきになってしまいました。

3)名古屋市立緑高校「太陽のあたる場所」(堤泰之作・既成)

突然の母の死に直面して、家族たちが何を考え、なにを想うのか、といったストーリー。
そこに謎の弔問客が訪れ、母と父の過去明らかになっていく。

話はうまくできてるなあと思いました。ただ、やはり既成作品ということでおそらく60分に入れる
ために脚本を切ってるんでしょう。いいエピソードが次々と展開するんですけど、その話を
補完する複線的な部分が切られている印象です。

セットも日本家屋がばっちり再現されていて、クライマックスに庭にひまわりが咲き誇ると
いうのもよくできていました。
あれ作るの大変だったろうなあと本当に感心しました。
キャストの演技も、もちろん年齢相応にはなかなか見えないということはあるにせよ、
アンサンブルはちゃんととれていたと思います。
全体として、チームの力を強く感じた舞台でした。


4)福井県立勝山南高校・奥越明成高校(顧問創作)

オープニング。小惑星探査機「はやぶさ」の映像に目を奪われる。
幕が上がってからは、舞台中央に大きな望遠鏡。
「宇宙研究会」のメンバーと、2億年前の恐竜や大トンボが、役を交差させながら展開する。
ストーリーはしっかりしているし、集中して観ることができるんだけれども。

今回の作品はミュージカルということで、歌がふんだんに使われています。
いわゆるミュージカルに共通していえることなのかもしれませんが、「歌は言葉を超えるか」と
いうことをこの作品を観ながら考えていました。
クライマックスの百合の台詞はかなりぐっとくるものがあったのですが、そこでいきなり
歌になると正直「あれれ」となりました。
どうしても歌はいきなりクライマックスにはならないのだろうなと。しかし台詞はかなりテンション
があがってきて歌に行くので、一回テンションが下がる感じがするわけです。
また、歌の歌詞はとくに日本語の場合そんなに言葉を詰め込めないですから、必然的に
理性よりも感情に訴える内容になるのではないかと。
これも好みと言ってしまえばそれまでかも知れないですが、やはり百合の言葉をもっと
聞きたいと感じました。
私自身はミュージカルの演出はやったことがないので、実際にやるとどうなるのかと考えさせ
られました。きっと練習はかなり増えちゃうだろうな。。。とか。


5)愛知県・豊川高校「ちいさいタネ」(黒瀬貴之作・演劇部潤色)

原爆投下後の広島を舞台に、ひたむきに生きていく4人の子供たちを通して「生きる」と
いうことを問うストーリー。

物語が進むにつれ、実は主人公の正一だけが生き残り、あとの3人は死んでしまっていた
ことがわかります。
理不尽な力(この場合原爆)で根拠なく人が死ぬという状況は、3・11を連想させます。
なぜ自分が生き残ったのか。
サバイバーズ・ロスの心理は、あの津波を生き残った方を今も苦しめているのかも知れません。
作品のクライマックスでの「生きていたい」という叫びも、「死んだ方がよかった」という嘆きも、
俳優の熱演でリアリティを保っていたと思います。

そう、熱演です。

章役の野本さん、百合役の眞木さん、俊夫役の石田さん、いずれもさすが3年生と思わせる
力を十分に発揮していました。特に章は怒り、喜び、嘆きとそれぞれに役の個性を生かしな
がら生き生きと演じていてとてもすばらしかった。
実際に稽古をみたわけではもちろんありませんが、稽古を「超えてくる」ドライブ感を強く感じ
ることができました。

絶賛ばかりでもアレなので、実は気になったところが1点。
エンディングで、正一は妻と娘と3人で生きていることが示されます。作品中盤では広島から
来て放射能を浴びているということで結婚や就職を断念しなければならないシーンがあります。
舞台奥だったのもあって、結婚できなかった「千枝子」と、エンディングの妻が同一人物か
どうかがわかりませんでした。

なので、ここからは推測というか架空の話?です。
もしもエンディングで登場した正一の妻が「千枝子」であったとすれば、どうやってその差別
をはねかえしたかが重要なはず。むしろ描くべきはそっちじゃないか、くらいのことになると
思います。
別人ならまぁいいんですが、それもどうかなとなりますよね。一番好きだった人はあきらめた
のか、みたいな。
今、パンフレットを見ると「正一の妻」がいないので、同一人物かなあとは思うんですが、
だとすると、そうしたことを考えてみてほしいと思います。生きている人間を語る時に、死んだ
人間を介していくということの是非というか。生きている人間だけでそこは語れないのか。
正一が生きる希望を取り戻すには、「死者」が必要なのか。
創作ではないのでそこまで・・・という感はありますが、いい作品だったので書いてもました。


というわけで2日目終了!





記事検索
月別アーカイブ
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ